超氷河期世代が選んだ2つの国での暮らしと、あの日とは違う成田空港
Posted on 05 Jul 2025 21:00 in ASKSiddhiのひとりごと by Yoko Deshmukh
もちろん、スマートフォンやインターネットの整備による、コミュニケーション格差の劇的な縮小も大いに影響していることは見逃せません。
物質主義と拝金主義がはびこる2000年代初頭の日本を逃げ出し、インドに移住してきた、超氷河期ど真ん中世代のわたし。
自分で選んでやってきたインド、マハーラーシュトラ州アコラ(Akola)、そしてその後のプネーでの生活は、特に親族との付き合いや宗教的な部分で(あくまで自分比で)予想をはるかに超え、理解に苦しむことの連続だった。
20代なかばにして、すでに眉間には深いシワが刻まれていった。
ただし誤解のないように断っておくと、こちらの親族はみな素朴で温かな方々だし、ヒンドゥー教徒であることを強要されたことなど一度もない。
それでも、人との距離感や暗黙の(とわたし自身が勝手に思い込んでいた部分も多分にある)さまざまな期待に応えられないことによる苦しみや葛藤には、ずっと悩まされてきた。
一方で、移住当初から日本の両親とは「年に1回の帰国」を約束し、お金に限りがあるなかでも、その約束を守ってきた。
帰国したからといって特別扱いされるわけではないけれど、少なくともひとりやふたり分の航空券を手配できるだけの収入を常に確保しようと誓うことは、自分自身のためでもあった。
とはいえ、一時帰国のたびに、最もつらい瞬間を経験しなければならない。
それは、再びインドに戻る日である。
自分から飛び出してきた以上、よほどのことがない限り、日本に戻るわけにはいかない。
けれど、年々老いていく両親を後にし、まったくの異世界であるインドへ戻る日だけは、いつまでたっても慣れることができず、毎回、胸が引き裂かれるような思いを味わっていた。
やがて父を肺がんで亡くし、あっという間に十数年が経った。
今では一時帰国といえば、独り暮らしをしている母の元で2か月ほどのあいだ暮らすことを意味するようになり、自然と、日本とインド、2つの国のあいだで1年を半々に過ごすような生活になっていった。
そうなってくると、日本もインドも、それぞれの「いいところ取り」をしようと思えば、いくらでもできる。
また、両国をまたいで同じ仕事を続けており、関わる人々の性質もあまり変わらないことから、帰国時のあの悲壮感は、少しずつ薄れてきた。
今回、4月末から2か月ほど過ごした日本を離れる際に利用した成田空港では、「いよいよ出発だ」というような緊張感はまったくなく、単純に、もうひとつの家に帰るだけ──そんなフラットな感覚であったことに、我ながら驚いた。
鈍感になったとは思いたくない。
プネーに戻れば戻ったで、何らかの「ワナ」が仕掛けられている。
今回は帰宅早々、断水しておりシャワーも浴びられないという洗礼を受けた。
日本とは環境も、何もかもが違う異国であることに変わりはない。
それでも、シッダールタや実家の母といった頼もしい協力者のおかげで、収入が少ないなりに、2か国間で何も不自由なく暮らせている。
だからこそ、あの独特の心の痛みも、少しずつ和らいできたのだと思う。
そして今、出国直前の成田空港をすっかりリラックスしてうろついている。
22年前、悲痛なまでの決意を背負い、インド永住に向けて旅立った、同じ空港である。
「こんな日が来るなんて」 と、静かに感慨にふけったのであった。
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Yoko Deshmukh
(日本語 | English)
インド・プネ在住歴10年以上の英日・日英フリーランス翻訳者、デシュムク陽子(Yoko Deshmukh)が運営しています。2003年9月30日からインドのプネに住んでいます。
ASKSiddhi is run by Yoko Deshmukh, a native Japanese freelance English - Japanese - English translator who lives in Pune since 30th September 2003.
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