プネーに帰ったAさんのこと

 

Posted on 18 Aug 2025 21:00 in ASKSiddhiのひとりごと by Yoko Deshmukh

先ほど写真を見返していたら、Aさんも極力ティーパーティの常連であり続けてくれていたことが分かりました。



この年になると、同年代も含めて訃報を聞く機会が増える。
その度に、生きることには必ず終わりが来るのだと納得せざるを得ない。
とはいえ、病気や事故による急逝の知らせのほうが、天寿をまっとうされたお知らせよりも、まだまだ多い。

その点、Aさんはどうだったのだろうか。
わたしが把握する限り、恐らく80代に差し掛かるか否かくらいの年齢であった。
最後にお目にかかったのは、インド全土がロックダウンに入る直前の2020年3月だったように思う。
いや、ロックダウンが明けて自由に動けるようになってからも一度、どこかで偶然お目にかかったかもしれない。
当時、Aさんはだいぶお若く見えるご友人Kさんとともに暮らしており、2人そろって「マスクなんか意味がない」とノーマスク生活をされていたと記憶している。

結局、それが最後になってしまった。
もう5年も前のことになってしまったことに、我ながら愕然とする。
その間、ずっと「Aさん」を心の片隅に置きながら、一度も連絡を取らなかった自分を責める気持ちがある。

Aさんと初めて会話をしたのは、ゆうに10年以上前のことだ。
面識はなかったが、ある日突然お電話をいただいた。
当時のわたしは、ムンバイーの日本総領事館にお勤めだったIさんのご期待を受けて、日本人の「連絡先係」(積極的に連絡するのではなく、連絡を受ける係)を務めていた。

インド出身ながら日本国籍を取得していたAさん。
40年以上暮らした日本を引き払い、余生をプネーで過ごすべく帰国されたばかりだった。
日本には同じくインド人の夫の仕事で移住したが、その夫はAさんが40代になるかならないかのころに急逝。
以来、ずっとひとりで生きてこられたそうだ。
営団地下鉄の最短運賃が「Japan Times」紙と同じ40円だったころの東京の話を聞くのは、とても楽しかった。
日本を離れるにあたっては、年金の手配を日本のご友人が担い、毎回送ってくれていたという。

Aさんはわたしの実の母より年上であったこともあり、ときどきティーパーティーなどでお話をする以外は接点が少なかった。
しかも、わたしの全面的な不義理で、こちらから連絡を取ることはほとんどなかった。
しかし、気づけば心の片隅には常にAさんがいたことは本当だ。
Aさんはパールスィーなので、いまごろは天国に行っているのだろうか。

メイドさんを鍛えて再現度高く仕上げたという力作のダーンサーク(Dhansak)は、とうとう食べに行きそびれてしまった。
一方で、かつてプネーで日本人たちが腕を振るって販売していた弁当を注文しての試食パーティーを、ともに何度も開いた。
足を悪くされていて、手術のためにたびたびシンガポールに渡られていたAさん。
わが家は古い団地でエレベーターがなく階段しか手段がなかったため、とうとうお招きできなかったことが悔やまれる。

そんなAさんだけど、好きな旅行にはたびたび出掛けていた。
じっくり聞かせていただいた、さまざまな紀行譚の中でも、グジャーラート州カッチにある塩湖でのキャラバンの話がもっとも鮮やかな記憶に残っている。
行動的なAさんに心底、感心してしまった。

たいていはAさんの方から、ときどき電話をくださった。
わたしの心の病気のことも、きちんと理解しようとしてくれていた。

Aさんは、まちがいなく、わたしの人生の大切な登場人物である。
どうか安らかに。






About the author

Yoko Deshmukh   (日本語 | English)         
インド・プネ在住歴10年以上の英日・日英フリーランス翻訳者、デシュムク陽子(Yoko Deshmukh)が運営しています。2003年9月30日からインドのプネに住んでいます。

ASKSiddhi is run by Yoko Deshmukh, a native Japanese freelance English - Japanese - English translator who lives in Pune since 30th September 2003.



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