排外主義という「心の飢え」を越えよう

 

Posted on 07 Feb 2026 21:00 in ASKSiddhiのひとりごと by Yoko Deshmukh

選挙を前に広がる排外的な言葉を前に、「他者を排除しない姿勢が結果として自分と社会の生きやすさにつながる」との結論に至った、わたしのインド人生を重ねました。



再び、選挙を前にして、あの日の「恥」の続きを記しておきたいと思う。
昨年の参院選を前に、わたしは自らの中に潜んでいた差別心や劣等感を、「恥」としてさらけ出した。

投票前に、どうしても伝えたいわたしの「恥」 Posted on 19 Jul 2025

しかし今回の衆院選を前にして、日本社会には信じがたいことに首相その人を筆頭にした与党の政治家「先生方」をも例外とせず、当時以上に排外主義の風が吹き荒れているように見える。
他者を排除し、自分たちのテリトリーを守ろうとするその激しい動き、もしくは(得票や金銭的ゲインを視野に入れた)単なる「愉快な祭り」としてそれを楽しむ人々を目にするたび、わたしはかつての自分自身を思い出さずにはいられない。

「他者を排除したい」という衝動(そしてそれを燃料に票や小銭を稼ごうとする行為)は、実は「自分の居場所のなさ」や「将来への不安」といった、心の飢えと深く結びついている。

たとえば、わたしの住むマハーラーシュトラ州、特に田舎の人々にとっては、自分(個人)と親族や家族との間にある境界線はきわめてあいまいで、そのことによって、わたし自身も大きな葛藤を経験してきた。
具体的には、義理の家族が突然、あるいは直前の連絡のみで田舎から出てくると、狭い1BHKの一室であるわが家に、期限を定めることなく数か月にわたり滞在していく。
その間、プライベートスペースという概念はほとんど存在せず、むしろ客人として遇することが当然のように求められる場面もあった。
このとき、そうした顛末をおもしろおかしく「愚痴」として垂れ流したり、思い切って近くのホテルを取って避難したりすることもできたかもしれない。
しかし、わたしはあえてそうした道を選ばなかった。

さすがに現在は、時代の流れとともに価値観や生活も変化し、また間に入ったシッダールタの腐心のおかげもあって、義理の家族との間には「見えないパクト」のようなものが結ばれ、このような事態はほぼ起きなくなった。
このようにして長年をかけ、ようやくメンタルバリアを乗り越えて「家族の一員である」と実感できるようになってきた、まさにその親族のひとりから、思いもかけない不義理を受けたこともあった。

その際、その人物の生い立ちにまで否定的な感情を抱き、忌み嫌ってしまったことが、わたしにもある。
それは決して遠い過去の話ではない、わたし自身の恥ずかしい経験であり、そしてこれらを「ネタとして昇華」することは拒否して自らの中で飲み込み、消化してきた。

その戦いの中で、わたしが突きつけられたのは、「境界線を引けない苦しさ」と、「排除したくなる衝動」が、常に表裏一体で存在しているという現実であった。
そして同時に、他者を拒絶することでしか自分を守れない状態こそが、人として最も追い込まれ、貧しくなった姿なのだということも、身をもって知った。

だからわたしにとって排外主義とは、理解不能な他人の思想ではない。
自分自身も一度は手を伸ばしかけ、しかし引き受け、飲み込み、乗り越えるべきだった、人生の中で最も恥ずかしい衝動に与えられる名前なのである。

わたしたちはいつの間にか、人間を「経済的利益をもたらすかどうか」という一点で評価するようになってはいないだろうか。
排外主義や弱者切り捨ての論理は、人を「コスト」や「資源」としてしか見ない、冷徹な視点から生まれる。

しかし、この論理は恐ろしい刃となる。
「役に立たない」と誰かを切り捨てる社会は、病気や老いによって「役に立たなくなった」瞬間に、わたしたち自身をも切り捨てる社会にほかならない。
誰かを「不必要」と断じることは、自分自身の生存基盤を、自ら壊している行為と同義である。

最近、一時帰国中にとある書店で偶然手に取った一冊「百年の挽歌 原発、戦争、美しい村」(集英社)は、冒頭から強く引き込まれる内容であり、多くの人が読むべきものだと衝撃を受けた。
著者の青木理氏によれば、何度も現地に足を運んで取材を重ね、完成までに10年以上の歳月を要したという。
それは明らかに、経済的利益のみを目的とした仕事ではない。
誰もがカネのためだけに行動する社会では、このような重要な知識や情報は、そもそも生まれにくく、行き渡ることもない。

排外主義の根底にあるのは、「自分たちの利益が奪われる」という強烈な恐怖である。
しかし、インドで20年以上、冒頭に挙げたような不義理や失望、説明のつかない困難に直面しながら生きてきたわたしは、まったく異なる現実を学んだ。

わたしは経済的に常に余裕があったわけではないが、インド、日本、そしてグローバルな複数の団体に対し、10年以上にわたって、毎月の寄付を続けてきた。
そこで得たのは、「社会に貢献すればするほど、巡り巡って自分に返ってくる」という、善意の循環への「根拠のない確信」である。

他者を排除し、利益を囲い込もうとする行為は、この循環を断ち切り、自らを精神的な貧困へと追い込む。
不義理という負の連鎖に差別心で応えるのではなく、自らのプロ意識を高め、正の循環を生み出そうとすること。
それこそが、閉塞感を打ち破るための、きわめて現実的な光なのだ。

かつてのわたしは、インドに住む自分を、どこか「日本の街並みから浮いた存在」として恥じていた。
しかし今は違う。
多言語を多少なりとも操り、2つの国の深層を見てきた20年の蓄積は、わたしにしか生み出せないコンテンツを形づくる、確かなブランド価値となった。

社会も同じである。
異質なものを排除し、「純血」や「同質性」を求め続けた先に待っているのは、硬直化と息苦しさだけだ。
「異質なもの」を否定するのではなく、自分の中に統合していく過程こそが、予測不能な強さと豊かさを生む。

他者や社会のために自分のリソースを使うことは、回り回って、「自分が生きやすい世界をつくるための投資」になる。
「根拠はないけれど、自分は大切にされて当然だ」と、自分自身にも、そして目の前の隣人にも思える社会。
そのような「根拠なき自己肯定」が広がるとき、他者を攻撃することで自尊心を満たす必要はなくなる。

選挙のたびに、誰かを排除する言葉が力を持ち始める今だからこそ、わたしはこのことを伝えたい。
それこそが、結局は自分自身が一番「うまくいく」近道なのだと、インドの空の下から、日本の皆さんに向けて。
 

ASKSiddhiは、Noteでも記事をアップしています。
今後メンバーシップを利用した企画なども考えていますので、
よろしければフォローしてみてください。






About the author

Yoko Deshmukh   (日本語 | English)         
インド・プネ在住歴10年以上の英日・日英フリーランス翻訳者、デシュムク陽子(Yoko Deshmukh)が運営しています。2003年9月30日からインドのプネに住んでいます。

ASKSiddhi is run by Yoko Deshmukh, a native Japanese freelance English - Japanese - English translator who lives in Pune since 30th September 2003.



Share it with


User Comments

Leave a Comment..

Name * Email Id * Comment *