最近、日本社会に急速に広がっているように見える、外国人排斥の空気に強い危機感を覚えている。
政府による入管制度の相次ぐ厳格化も、そのひとつだ。
2026年10月1日から、在留資格の変更や在留期間の更新にかかる手数料が大幅に引き上げられた。
それまで6,000円だった窓口申請の手数料は、許可される在留期間に応じて1万~7万5,000円となった。
永住許可の手数料に至っては、従来の1万円から一気に20万円へと、実に20倍に引き上げられた。
これに先立つ2025年10月には、外国人が日本で事業を経営するための在留資格「経営・管理」の許可基準も厳格化された。
従来の資本金500万円以上などの基準が見直され、事業に用いる財産の総額3,000万円以上に加え、原則として常勤職員を1人以上雇用することや、経営者または常勤職員が一定水準の日本語能力を有することなどが求められるようになった。
既にこの在留資格で暮らしている人々にも経過措置は設けられているものの、2028年10月以降の更新では新基準への適合が求められる。
さらに、2026年10月に改定された永住許可に関するガイドラインでは、日本語能力や経済的な安定性などが審査上の考慮要素として、より詳細に示された。
2027年4月から適用される新基準では、原則として日本語能力B1相当*以上が考慮されるほか、日本人や永住者などの配偶者について、原則10年の在留要件の特例を認める条件も、実体を伴う婚姻生活3年以上、日本での継続在留1年以上から、それぞれ5年以上、3年以上へと厳格化される。
そもそも、これまでも日本で永住許可を得ること自体、長年暮らしてきたからといって容易になるわけではなかった。
出入国在留管理庁が公開している第7次出入国管理政策懇談会の議事録(2018年)には、日本に20年以上暮らし、仕事をし、日本の大学院にも通っていた難民が、永住許可を申請したものの、不許可になったという事例が紹介されている。
紹介した委員自身も驚いたというこの事例では、本人にどのような理由で不許可の判断が下されたのか、議事録からは明らかではない。
また、2007年には、日本で働き、納税し、子どもたちを日本の学校に通わせていたペルー国籍の女性への永住不許可処分について、東京高等裁判所が違法と判断し、取り消した事例もある。
日本に生活基盤を築き、社会の一員として暮らしてきたという事実が、必ずしも永住許可につながらない。
そんな不安定な制度の下で、既に永住許可を得た人々についても、その法的地位を取り消せる理由を新たに追加することの意味を、もっと慎重に考える必要がある。
政府は、在留管理の適正化や制度運営に必要な費用負担などを理由に挙げている。
しかし、一連の制度変更が、日本社会で既に生活基盤を築き、家族や地域社会とともに暮らしてきた外国出身者に、どのような不安や負担を与えるのか。
そうした視点が極めて軽視されている。
そもそも、外国人が日本で暮らすことの正当性は、働いているかどうか、どれだけ納税しているかによってのみ判断されるべきものなのだろうか。
子育てや介護、家事を担う人もいれば、高齢や病気、失業などによって働くことのできない人など、日本人や永住者の配偶者が、自らの所得に対し納税していない家庭も多くある。
そうした人々は、税金を納めていないというだけで、その社会を終のすみかとして暮らす資格を失うのだろうか。
仮に日本人であるわたしが、インド人の夫と今後、日本で暮らすことを望んだとしても、夫婦の経済的な生産性や納税額によって、家族として一緒に暮らすことの価値まで判断されるのだろうか。
外国人を受け入れる意義が、どれだけ働き、どれだけ税金を納め、どれだけ日本経済に貢献するのかという金銭的な尺度でばかり語られることに、強い違和感を覚える。
人間は労働力である以前に、生活する存在であり、家族を持ち、それぞれの人生を生きる存在である。
経済的な自立や法的義務の履行が在留審査において考慮されることと、人間として尊重されるべきかどうかは、本来、別の問題である。
その区別すら曖昧になりつつある現実を、当然の義務として受け入れねばならないような空気になっていることが、何より恐ろしい。
そもそも、日本の外国人政策には大きな矛盾があるように感じる。
少子高齢化と人口減少が進む中、外国人の労働力に依存する一方で、その人々が日本に生活の基盤を築き、長期的に暮らしていくことには、次々と新たに厳しい条件を課す。
労働力としては必要だが、社会の対等な構成員として受け入れることには消極的なのだとしたら、それはあまりに身勝手だ。
そして、こうした政策の背景にあるように見えるのが、円安や物価高、生活の先行きに対する不安である。
これらは本来、政府が包括的な課題として掲げ、対策を講じるべき問題である。
首相を筆頭とする政府の経済政策は、生活に苦しむ人々の声に十分耳を傾けず、依然として解決を先送りしている。
だからといって、その膨れ上がった不満の矛先を、もっとも安易に攻撃しやすい「外国人」という存在へと向けてよいはずがない。
むしろ、政治がそうした不満を利用し、外国人を問題の原因であるかのように扱っているように見える。
そこへ、匿名の傘に隠れてインターネット上に差別発言を垂れ流す、いわゆる「ネトウヨ」の存在が重なる。
自らの人生が思うようにならない鬱屈や劣等感を、他者をおとしめることで晴らそうとしているかのような言葉の数々。
その内面を知る由もないが、誰かを攻撃することでしか自分の優位性を確認できないかのような言説には、強い嫌悪感を覚える。
しかし、わたしがさらに深刻だと考えているのは、そうした人々の偏見や憎悪そのものを商売の道具にする、いわゆる「ビジネス右翼」の存在である。
外国人に対する敵意や不安を刺激する言葉を意図的に発信し、閲覧数やフォロワーを増やして収益につなげようとする人々だ。
そこでは、発信する情報が事実かどうか、誰かを傷つけることにならないか、社会にどのような影響を及ぼすかといったことよりも、どれだけ注目を集め、どれだけ金になるかが優先されている。
SNSや動画配信サービスには、一定の条件を満たした発信者が閲覧や視聴などに応じて収益を得られる仕組みがある。
その仕組みの下では、怒りや恐怖をかき立てる情報を繰り返し発信することが、金銭的な利益につながる可能性がある。
根拠が乏しくとも、露骨な偏見であろうとも、人目につきやすい言説を垂れ流すことで、収入を得ようとする人々が存在する。
つまり、差別や憎悪が、ひとつの収益源になり得るのだ。
こうなると、もはや単なる思想や政治的信条の問題ではない。
外国人への敵意をあおることが金になるのであれば、より過激な言葉、より刺激的な映像、より荒唐無稽な偽情報を発信しようとする動機が生まれる。
昨日までの言葉では注目を集められなくなれば、今日はさらに過激な言葉を使う。
新たな標的を探し、ささいな出来事を大げさに騒ぎ立て、ときには一部の外国人の行動を外国人全体の問題であるかのようにすり替える。
そうした発信によって得られる利益が、さらなる発信を促すという悪循環が、実際に生じている。
何より許し難いと感じるのは、そうした人々にとっては、画面の向こうで攻撃されている外国人の生活や尊厳が、まるでどうでもよいものになっているように見えることだ。
発信者は閲覧数や収益を手にする一方、標的となった人々は、日常生活の中で敵意や偏見にさらされ、場合によっては安心して暮らすことすら難しくなる。
他人の生活を脅かすような言説が、発信者の生活を潤す。
このあまりにも倒錯した構図に、強い憤りを覚える。
しかも、こうした発信に触れた人々の中には、その内容を十分に検証することもなく丸呑みにし、身近に暮らす外国出身の住民へと敵意を向ける人々もいるように見える。
発信者が金儲けのために作り出したかもしれない敵意を、受け手が本物の信念として取り込んでしまう。
そして、その信念に基づいて、何の関係もない外国出身の住民に憎悪を向ける。
ここに、ビジネス右翼による差別の商業化が持つ、もっとも恐ろしい側面がある。
発信者にとっては収益を得るための手段にすぎないものが、受け手にとっては疑う余地のない「事実」となり、現実社会における差別や排斥を正当化する根拠になっているのだ。
そして、インターネット上の匿名の悪意や、強欲で金儲け至上主義的な偽情報が、いつの間にか現実社会で暮らす人間に向けられ、支持率や票数を目当てにした「政治家」らにより、政治的言説や制度のあり方として影響を及ぼしていく。
こうして排外主義的なものの考え方が、段階的に、あたかも社会の共通認識であるかのように拡散されていく光景には、恐ろしさを覚える。
差別を商売にする人々が利益を得て、その言葉を信じた人々が差別を実行し、政治がそこに支持を得る機会を見いだす。
日本社会でそのような循環が成立しつつあるのだとしたら、それこそが現在進行している社会の劣化を象徴する問題ではないかと思う。
わたしが現在の日本に感じているのは、そうした悪循環への強い懸念である。
日本社会が経験している、このあまりにも急速な劣化には吐き気を催す。
ただし、ここで思い当たることがある。
本当に、これは最近になって急に始まったことなのだろうか。
わたしは20年以上前にインド人と結婚し、当初2年ほど首都圏に住んだ後、インドへ移住した。
その後も年に1、2回は、夫とともに日本へ一時帰国してきた。
このかた、インド人の夫も、その配偶者としてインドで暮らすわたしも、個々の場面で親切にしてもらったことは数え切れないほどあるが、日本社会に歓迎されていると感じたことは一度もなかった。
もちろん、すべての日本人が外国人に冷淡だと考えているわけではない。
それでも、夫とともに日本の街を歩いているときに感じてきた、あの独特の居心地の悪さは、当事者でなければなかなか理解できないかもしれない。
そして、その感覚は、外国人であれば誰に対しても同じように生じるわけではないらしいことにも、幾度となく気付かされてきた。
たまに仕事関係の人や友人の、いわゆる金髪碧眼の人や、体格が「日本人離れした」外国人などと連れ立って歩くと、訪問先や商業施設の店員らの反応が、夫と一緒にいる時とは明らかに違って、かなり慇懃だと感じることがあった。
一方、インド人などの南アジア系、あるいは東アジア系の人などと英語で話しながら歩いているときには、刺さるような視線を感じたり、あからさまではないにせよ、避けられているような気配を感じたりすることがあった。
同じように外国出身の人と歩いているだけなのに、相手の外見によって周囲の反応が違って見える。
それは、外国人一般への警戒心というだけでは説明できない、外見や出自による序列意識の存在を思わせるものだった。
むろん、他人の視線や態度の理由を、わたしが正確に知ることはできない。
しかし、そうした小さな違和感が長い年月の中で幾度も積み重なってきたことも、また事実である。
考えてみれば、わたしがいま日本で目にしている外国人排斥の空気は、何もないところから突然生まれたわけではないのかもしれない。
以前から日本社会の中に存在していた偏見や差別意識が、経済的な閉塞感や、インターネット上での小遣い稼ぎのため無責任に垂れ流される言説、そして政治的な動きによって、以前よりも堂々と表明されるようになってだけなのではないか。
かつては、視線や態度、言葉にならない距離感として感じていたものが、いまや公然とした排斥の言葉になり、制度の厳格化へと連なっているように見える。
そう考えると、最近の変化は、決して新しい問題ではない。
むしろ、長年にわたり見過ごされてきた問題が、隠しようのない形で表面化しているだけなのかもしれない。
わたしが恐れているのは、外国人に対する差別そのものだけではない。
人間をその出自や外見、国籍によって選別し、社会の不満を特定の集団へと押し付けることに、多くの人々が疑問を抱かなくなることだ。
そして、そのような空気に慣れ、差別を差別として認識する感覚さえ失われていくことだ。
外国出身の人々が日本で生きることを、どこまで歓迎するのか。
その問いは結局、日本社会が、自分たちと異なる背景を持つ人間を、どこまで対等な存在として認められるのか、という問いにほかならない。
少なくとも、わたしがこれまで見てきた日本では、その問いに十分な答えが示されてきたとは思えない。
そして、いま進んでいるように見える変化は、その答えからさらに遠ざかるものではないかと感じている。
*B1相当: 文化庁の「日本語教育の参照枠」における日本語能力の水準のひとつ。仕事、学校、日常生活などで接する身近な話題について、標準的な話し方であれば主要な内容を理解でき、自分の経験や希望、目標などについて簡単に説明できる程度の能力を指す。永住許可審査では考慮要素とされるが、一部の申請者には適用されない例外がある。

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