好きになれなかった町、忘れられない家

 

Posted on 15 Oct 2026 21:00 in ASKSiddhiのひとりごと by Yoko Deshmukh

人生とは、予期せぬ出来事や、避けられない変化と、折り合いをつけていくことの連続なんだな。



インド移住後、最初の2か月間を居候させてもらった義両親の家。
それはマハーラーシュトラ州内陸部の小さな町、アコラ(Akola)にあった。

きょう、この家は正式に他者の手に渡り、家族にとってのアコラという町は、永遠に過去のものとなった。

義父の名前を取って「Yashwant Niwas」と名付けられていた、あの家。
当初は2階建ての古い石造りの建物で、そのうちの上階に義両親と義父の母親、そして飼い犬のフロッピーちゃんが暮らしていた。

フロッピーちゃんは、子犬のころに患った病気の影響で前脚が内側に大きく曲がっており、歩くときの足音にも独特の特徴があった。
他人には大声で吠えていたのに、なぜかわたしには初対面のときからとても懐いてくれた。

門をくぐると、義父が世話をするマンゴー、ニンブー、トゥルシー、ジャスミン、ジャックフルーツなどの木々が植わった前庭が広がり、左手にある石造りの急な階段をのぼって玄関へ向かう。

義父はまめにこうした木々を手入れしていたし、小さくとも果実がなれば、家族で食べるのがささやかな楽しみだった。
家の中のことは義母が取り仕切っていたが、前庭の木々は義父の領分だった。
あの家の記憶をたどるとき、建物そのものと同じくらい、庭の緑と、そこに向き合う義父の姿が思い浮かぶ。

地上階部分は3世帯ほどに貸し出されていたので、常ににぎやかな印象だった。

玄関前のポーチは、個人的に最も好きな空間だった。
そこにはギシギシときしむ鉄製の寝台が置かれていて、タパディヤ・ナガル(Tapadiya Nagar)を往来する物売りたちの声や、闊歩する黒ウシやロバの鳴き声に耳を傾けながら、丸々と太った蚊の襲来をかわしつつ、夕焼けを眺めた。

時折、ジャスミンの白い花びらがひらひらと舞い落ち、綿くずを撚って編んだ独特の鮮やかな色合いを特徴とする、いわゆるチンディー(Chindi)織の寝台カバーを彩った。
チンディー織のラグは、大小のものが、この家の各所に敷いてあった。

緑色に塗られた重い木の扉を観音開きにして玄関を入ると、6畳ほどの小さな、いわゆるドローイング・ルームがあった。

片面には窓、もう片面には壁面に埋め込まれた鏡張りのガラスケースがあり、わたしが日本から持ち込んだものや、日本の両親に託されるなどしたガラス細工や扇子、お人形などの置物が、大切そうに飾られていた。

ドローイング・ルームの左手を進むと、両脇に出入り口のある、通路と部屋の中間のような空間があり、義父の高齢の母は、いつもここに座っていたり、寝ていたりしていた。

その部屋の左手には4.5畳ほどの寝室が、前方には、この家で最も広い空間だった8畳ほどのキッチンがあった。

キッチンに入って右手にはヒンドゥー教の神棚があり、左手にはコンロや鍋釜、石造りのシンクが並んでいた。

床も不ぞろいの石造りで、思わぬところに段差があるため、そうした突起に義母が足をぶつけてケガをしたこともあった。

キッチンを抜けると、そこはもう屋外である。

屋根のない渡り廊下を突き当たると、右手には小さなトイレとバス、左手にはルーフトップバルコニーがあり、ここで洗濯物を干したり、お手伝いの方が食器を洗ったりしていた。
時折、義母はこの渡り廊下から階下の住民に何やら話しかけていたものだった。

ちなみに母屋から独立した造りのトイレは、日差しのまぶしい乾燥した日中はよいが、夜間は照明も暗く、足元もおぼつかない中で用を足すのが心もとなかった。

これが、当時の義両親の家のすべてである。

ルーフトップバルコニーと言えども、そこからの眺めは、お世辞にも絶景と言えるものではなかった。
また当時、ルーフトップバルコニーのすぐ脇には「サービスライン」と呼ばれる溝が走っており、家庭ゴミは分別もせず、そのまま投げ捨てるようになっていた。
これが、わたしにとっては大きなカルチャーショックだった。

サービスラインをのぞき込むと、捨てられたゴミを目当てに野生のブタやサル、野良ウシたちが歩き回っていた。
そして常に糞尿が入り混じったような臭気が立ち上り、その鼻をつく臭いは風に乗って家の中にまで入り込んできた。

アコラは、国際空港のあるムンバイーから鉄道でも12時間以上かかり、周辺に大きな街もない、人口30万人ほどの田舎町である。
当時も、おそらくほぼ確実に現在も、外国人もいなければ、気の利いたカフェやレストラン、冷房の効いたショッピングモールもない。

新たな生活を始めるに当たって、わたしにとってアコラで過ごした日々は、ワクワクする気持ちよりも、不安の方が圧倒的に大きかった。

しかも、ここまで間取りを説明してきたとおり、自分だけの空間というものはほとんど皆無だった。
マラーティー語もまったく分からなかったので、特に義母とのやり取りは、ジェスチャーとフィーリングで乗り切るばかりだった。

そんな家で、わたしは義母や、当時存命だった義母方の祖母からフルカ作りを仕込まれた。
言葉も習慣もろくに分からない中で、混乱しながらも見よう見まねで必死に覚えたことは、しっかりと体に刻まれた。

最初は生地をうまく丸く延ばせず、義母にはけっこう厳しく注意されたが、祖母はあくまで優しく教えてくれた。
現在もフルカを作るときには、いつでも当時の2人の姿を思い出す。

しかし、その反動で、ほかの料理については一切覚えずに今日まで来てしまったのだが。

その後、義実家は全面的な建て替えを経て、向かって右側を義両親、左側を同じアコラの町内でアパート暮らしをしていた義妹一家(義妹とその夫、2人の娘たちの4人)が占有する2世帯住宅に変貌した。

古い家が取り壊されるところを、わたし自身が実際に見ることはなかった。
しかし、新しく建てる家への希望に満ちていたからか、義理の家族たちは、意外とあっさりとその変化を受け入れていたように思える。

グレーのコンクリート打ちっぱなしの外観は、周囲から見てもちょっと目立つモダンな感じで、室内も広々とした2階建てになった。

地上階には10畳ほどのドローイング・ルームと、その奥に8畳ほどの立派なキッチン。
上階には広い寝室が2部屋と収納スペースがあり、さらに両階にそれぞれ広いバスルームが設けられていた。

屋上は両世帯をつなぐ巨大なルーフトップバルコニーとなり、後年になり日本人駐在員から譲り受けた犬のジャキーくんと遊んだり、ディワーリーの花火に興じたりした。

ジャキーくんは、日本人駐在員が帰国に際して一緒に連れて帰れないという理由で手放すことになり、ちょうど義妹の次女が犬を飼いたいと希望していたこともあって、義妹一家が引き取ったのだった。
屋上では、何往復も追いかけっこをして遊んだ。

しかし、まさにこのバルコニーのせいで、真夏の室内は日差しの照り返しをまともに吸収して、オーブンの中のようなサウナ状態となり、ひどい暑さだった。

この住宅が完成してからは、アコラを訪問するたびに、義両親と義妹一家の両方と交流できる環境となった。
前庭は駐車場を兼ねた広々としたスペースとなり、そこに流しのパニプリ屋台を呼び込んで、家族だけのパニプリ・パーティーを楽しむのが、毎年ディワーリーの恒例だった。

あのとき、みんなで際限なくパニプリを頬張りながら、まさかその数か月後には、パーティーマスターであった義妹の夫が亡き人になるなんて、想像もつかなかった。

2018年3月、わたしにとってはインドの兄とも言うべきだった義妹の夫が、心不全により若くして急逝した。
これにより、家族の状況は一変した。

最愛の配偶者であり一家の大黒柱を失った義妹と、夫の姪にあたり、ちょうどカレッジ進学前後の年齢だった2人の娘たちは、我々を頼ってプネーに移住してきた。
それからほどなくして、コロナ禍を挟んで数年が経過したものの、義両親もプネーに移住するのは当然の流れであった。

いまや、アコラに住む家族は誰もいない。

さて、わたしにとってプネー移住後のアコラ滞在は、たいていディワーリーなどの大きな年中行事や家族の儀式といった特別な機会があるときに限られ、毎回ごく短期間であった。
それでも、空港もなく、列車での移動もままならない「陸の孤島」のようなこの町への訪問には、片道10時間以上も埃だらけの茶けた悪路を延々と車で移動することを含めて、独特の困難があり、必ずしも楽しめるものとは言えなかった。

極度の乾燥と高温という気候の厳しさ、慢性的な水不足と水質の悪さ、義両親の家以外に行き場所が皆無だったこと、不安定な電力とインターネット接続、そして空気中に漂う独特の臭い。
思い出はすべて美しいもの、と言えるものでは決してなかったし、どちらかと言うと行きたくない町、というのが正直なところだ。
時間が経ったからといって、そうした記憶が都合よく美化されるわけでもない。

思えば、最後にアコラを訪れたのは、義妹の夫が亡くなったとの知らせを受けて駆けつけた、2018年のことだったと記憶している。

あの家の売却が決まったのは、昨年の今ごろだった。
わたしから見ると、義両親も義妹も、どちらかと言うと淡々と、その現実を受け入れているように見える。

そして今日、正式に売却されたと知った瞬間、最もセンチメンタルだったのはシッダールタだった。

シッダールタの運転する義父のスクーターの背にまたがって、彼が通った小学校、中学校、図書館と、見せてもらったことを、昨日のことのように思い出す。

アコラがあったからこそ営まれていた生活があり、そこにいた人々がいて、そこにあったさまざまなものがあり、そして、積み重ねてきた思い出が、確かにある。
あの古い石造りの階段も、ジャスミンの花びらが舞い落ちるポーチも、フルカ作りを教わったキッチンも、家族で囲んだパニプリ屋台も、すべてはあの場所でしか経験できなかったことだ。

そして、プネーに移住したあの日、ありったけの鍋釜や寝具、家具を譲ってくれ、あの家から見送ってくれた義両親の存在こそ、わたしのインド生活の原点である。
好きになれなかった町であっても、そこに刻まれた時間まで消えてしまうわけではない。

きょう、この家族にとってアコラという場所は、永遠に過去のものとなった。
 

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About the author

Yoko Deshmukh   (日本語 | English)         
インド・プネ在住歴10年以上の英日・日英フリーランス翻訳者、デシュムク陽子(Yoko Deshmukh)が運営しています。2003年9月30日からインドのプネに住んでいます。\r\n\r\nASKSiddhi is run by Yoko Deshmukh, a native Japanese freelance English - Japanese - English translator who lives in Pune since 30th September 2003.



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